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戦国の名将豊臣秀吉が愛した和菓子──「鶯餅」

奈良県 2022/09/14 15:40
御菓子司‧本家菊屋 本店。天井には歴史の重みを感じるのお菓子の木型が並べられている
御菓子司‧本家菊屋 本店。天井には歴史の重みを感じるのお菓子の木型が並べられている
鶯餅
本家菊屋

和銅3年(710年)、元明天皇は平城京(奈良市)に遷都され、以前の日本の首都として多くの歴史、国宝、伝統文化などが伝わった。その中でも437年の歴史を持つ和菓子の老舗「御菓子司—本家菊屋」は、初代創始者菊屋治兵衛が、戦国の名将豊臣秀吉も愛した「鶯餅」(「御城の口餅」とも呼ばれる)を作ったことでよく知られている。

天正十三年(1585年)に豊臣秀吉が大和郡山市(奈良県)を訪れた時、郡山城主の豊臣秀長は、兄の豊臣秀吉を招いて茶会を開いた。同時に城内の御菓子司に豊臣秀吉に珍しい和菓子を献上するよう命じた。当時御菓子司を務めていた菊屋治兵衛(本家菊屋の初代目)は、小豆粒餡を餅でコーティングし、きな粉をまぶして一口サイズの餅菓子を作った。素朴で上品な風味が豊臣秀吉に愛され、「鶯餅」と名付けられた。
数年後、本家菊屋の店舗が御城大門入口町人通りに最初の店舗として出店し、地元の人が「城の入口(城門の前)で売っている餅」と呼んだことから、別名「御城之口餅(おしろのくちもち)」とも呼ばれている。

 
豊臣秀吉公から、鶯餅の名前を授かったともいわれている奈良の名菓「御城之口餅」豊臣秀吉公から、鶯餅の名前を授かったともいわれている奈良の名菓「御城之口餅」Photo: 本家菊屋
 

鶯餅は現代に伝えられ、日本全国各地の和菓子屋で販売されている。これらの販売されている鶯餅の中には、緑や茶色のものもあり、人々は鶯餅の色を混同し始めた。これに対し、二十六代目菊岡洋之は、「『鶯餅』という名前は豊臣秀吉公から賜ったものです。きな粉の色が鶯の色だからと推論します。江戸時代には、梅の枝に緑の小鳥を描いた『梅に鶯』の日本画家から、鶯色とは緑色と間違った情報が定着しました。今では鶯を検索したら画像がすぐに見つかります。鶯は緑の色素もありますが、茶色の地味な鳥です。緑の綺麗な小鳥はメジロです。時代は江戸の前、まだ鶯の色が緑色と認識される前、ちょうどきな粉の色が鶯の色だったことから、鶯餅と銘が付けられたのではないかと思います。」

 
本家菊屋の看板商品「御城之口餅(おしろのくちもち)」本家菊屋の看板商品「御城之口餅(おしろのくちもち)」Photo: 本家菊屋
 

豊臣秀吉が愛した和菓子として、鶯餅(御城之口餅)は奈良を代表する名物となっており、400年以上にわたり、「御菓子司—本家菊屋」は今も古い伝統製法を受け継いでいます。老舗の看版を守り続けた二十六代目菊岡洋之は「子守歌にも歌われてきました当店の看板商品『御城之口餅』は丹波大納言小豆を使用した大粒の小豆餡、滋賀県近江産のもち米、きな粉は耕作面積の希少な青大豆を使用しています。派手さは有りませんが、それだけに素材は良い物を贅沢に使用しております。今後も柔軟に考え、時代の変化に応じて作り続けていきたいと思います。」

 
軸「一口残」の話は郡山藩第三代藩主、歷史に名を残す茶人な柳澤堯山 雅号「堯山公」の書でございます
軸「一口残」の話は郡山藩第三代藩主、歷史に名を残す茶人な柳澤堯山 雅号「堯山公」の書でございます。意味合いは「お菓子が美味しかったから、後でまた食べる為に一口分だけ残しておこう」というものです。Photo: 本家菊屋
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