三百年もの間色褪せることない伝説の陶芸──「楽山窯」
不昧公好みの窯
1677年に初代窯工倉崎権兵衛が萩藩から松江に入り開窯して以来、楽山窯は約340年の歴史を持つ。楽山窯は島根県で最も伝統的な工芸的価値を持つだけではなく「不昧公好みの窯」としても知られている。世代が移り、今では楽山窯は第12代目長岡住右衛門空郷に受け継がれ、その茶道具、茶垸は依然として日本の多くの茶道愛好家に大いに尊重され、非凡な伝統文化工芸としての価値を示している。
宝づくし茶垸、楽山窯の色絵は江戸時代の終わりごろから始まりました。その中の一つでめでたい多くの図柄を一つの茶垸の中に描いた華やかな作品です。©楽山窯
「楽山窯は茶道で用いる抹茶垸の製作を主としています。そのなかでも、初代の倉崎権兵衛の得意とした伊羅保、三島、御本といった、いわゆる高麗茶垸を模したものが中心です。」と12代目長岡住右衛門空郷氏は語る。「楽山窯の最も伝統的な代表的な作品は『刷毛目茶垸』で、朝鮮半島に源を持ち、その後日本で発展した茶道具といえます。楽山窯の代々受け継がれてきた伝統的な茶垸なので、時代により茶垸には異なる個性があります。」と述べた。さらに空郷氏は「江戸時代の終わりごろから始まった出雲色絵の海老茶垸、秋草茶垸、宝づくし茶垸等も製作しています。たくさんの縁起物を茶垸に描いた華やかな作品です。」と語ってくれた。
小槌香合、楽山窯は出雲大社の近隣に位置することから、古くから大社にちなんだ作品も多く作ってきました。この香合もそのひとつです。©楽山窯
楽山窯が世に広まった背景について、長岡住右衛門空郷氏はこう語る「江戸時代中期に、松江藩の7代目の殿様となった松平不昧公(1751~1818)は、日本を代表する茶道具の収集家として知られ、又、松江の工芸の基礎を確立した偉人として、現在でも多くの松江の人の尊敬を受けています。この不昧公が1760年ごろに楽山窯の5代として登用したのが長岡住右衛門貞政でした。5代の貞政は、不昧公の指導を得て、武家の流儀に沿った、大ぶりな堂々とした茶垸を多く残しました。」そのため、不昧公の指導の下で、楽山窯の茶垸は物静かで優雅な気品ある茶垸として成熟し、特に五代の貞政が焼いた茶垸は「不昧公好み」代表するひとつとされた。その為、楽山窯は今も高く評価され、現代においても工芸的価値を持っている。
不昧公坐像、楽山窯では不昧公の遺徳をしのんで100年に1度不昧公坐像を製作しています。写真の像は9代空味が昭和4年に制作したもので、楽山窯の敷地内にあります。©楽山窯
三百年もの時を経て、十二代もの世代を交代し、楽山窯は現在、第十二代目長岡住右衛門空郷氏によって継承されている。空郷氏は工芸を営む家系の下で、幼い頃から伝統工芸の影響を受け、大学で法学部を卒業後、京都陶工訓練校で研修し、陶芸の世界に決意を持って足を踏み入れた。空郷氏は「大学では法律を学んでいましたが、現在は工芸の世界におります。このことについてよく聞かれますが、私の生まれた実家が祖父の代まで四代にわたって八雲塗という漆器の製造販売を営んでおり、又、日本茶、和菓子、建具の製造等伝統的な仕事にかかわる親戚も多く、子供のころから伝統的な仕事に馴染みやすい環境であったことが、陶芸の道に進むことになった大きな理由と思います。」と語った。